一九八一年二月六日、板橋区の病院で私は産声を上げた。臍の緒が喉に絡みついていたため、二つ上の兄と同じく帝王切開での誕生だった。現代の医療技術があったからこそ母子ともに無事でいられたのだと思うと、医学の進歩というものに素直な感謝が湧く。帝王切開の語源となったジュリアス・シーザーの逸話が本当かどうかはさておき、その名を冠する術式に命を救われたのだから、歴史というのは不思議なものだ。
家は東京都中野区の鷺宮にあった。母の実家に近い板橋の病院で生まれたのは、里帰り出産のようなものだったのだろう。三歳半まで私はこの鷺宮で育つことになる。家のすぐ隣には地元の公立中学校の体育館と校舎があり、その角地に建つ一戸建てが我が家だった。坂道に面した変わった構造の家で、一階部分は丸ごと車庫になっており、居住空間は二階から始まる。だから二階の窓に立つと、まるで三階から街を見下ろしているような爽快感があった。体育館の向こう側には線路が走っていて、西武新宿線の黄色い車体が視界を横切っていく。あの黄色は、今でも目にすると胸の奥がほんのり温かくなる。故郷の色だ。もっとも、今となってはその中学校は廃校となって別の学校に吸収され、跡地には近隣の学校が移転してきたと聞く。実家のあった場所も住み替えが進み、かつての面影はもうないらしい。記憶の中にだけ残る風景である。
三歳半になるまでの記憶は、ほんの断片しかない。庭先で兄と一緒に雪だるまとかまくらを作ったこと。近所の園に通っていた頃、誰かが積み上げていた積み木の塔をうっかり崩してしまい、その子を泣かせてしまったこと。弁当箱がドクタースランプアラレちゃんの絵柄だったこと。どれも輪郭のぼやけた、けれど確かに自分のものだと感じられる記憶の欠片だ。
なかでも鮮やかに残っているのは、家族で海に出かけた日のことだ。伊東だったろうか、正確な場所は定かではない。ホテルの部屋に着くなり、壁に掛かっていた絵をいたずらでずらして遊んでいたら、父と母に叱られた。翌日だったか、浜辺に出ると波の音が怖くて海に近づけず、ひたすら砂遊びをしていた。湿った砂の感触、潮の匂い、遠くで砕ける白波。父はそんな私を見かねたのだろう、肩車をして海へと入っていった。「絶対に大丈夫だ」と言っていたのに、波に足を取られてふたりとも横転し、私は海にぼちゃんと落ちた。「うそつきー」と泣いた。父は笑っていた。私も泣きながら、どこかで楽しかった。ずっと砂場にいるだけではもったいない、海というものを息子の体に覚えさせたかったのだろう。のちに自分が父親になり、同じくらいの年頃の娘たちと海を訪れたとき、怖がる次女を抱き上げて波打ち際に連れていった自分に気づいて、ああ、あのときの父と同じことをしているのだと思った。次女はあの日のことを覚えているだろうか。
兄にまつわる記憶もある。母は自転車の後ろに兄を乗せて園への送り迎えをしていたのだが、ある雪の日、家の前の坂道でタイヤが滑り、母子もろとも転倒した。おそらく私はまだ入園前で、家の中からその光景を見ていたのだと思う。面白いのは、まだ三歳ほどだった。兄が、転んだ。母に向かって「いてーなこのやろー、なにすんだよ!」と叫んだという話だ。叫んだとも叫んでいないとも言われていて、もはや真偽は藪の中だが、今の穏やかな兄からは想像もつかない。幼い子どもの口から飛び出す乱暴な言葉というのは、痛みと驚きが混ざった純粋な反射のようなもので、聞いた母もきっと呆気に取られたに違いない。
兄はまた、園に送り届けられるたびに大泣きしていたそうだ。なかなか集団に馴染めず、母の姿が見えなくなると声を上げて泣いた。今の兄を知る者には信じがたい話だが、幼い頃の人間というのは、のちの姿からは想像もできない一面を持っているものだ。
父は商社マンとして世界中を飛び回っていた。今でこそインターネットやメール、ビデオ会議が当たり前の時代だが、当時の通信手段は電話と紙の書類、せいぜいワープロ、あとはファクスがあったかどうかという程度だった。大きな金額の取引を正確にこなしながら、相手との信頼関係を築くには、どうしても直接会って顔を見て話すしかない時代だったのだ。一度出張に出ると一か月近く帰ってこないこともあった。アフリカのある一国だけを訪ねて帰るのは効率が悪い。関連する複数の国を回り、近くまで行ったなら顔を出すだけということもあっただろう。そんな日々が続くうちに、三歳の私は郵便配達の人を見て「パパおかえり」と話しかけるようになり、たまに帰ってきた父が再び出かけていくときには「また遊びに来てね」と無邪気に声をかけていたとかいないとか。父にとってそれがどんな気持ちだったか、今なら少しだけわかる気がする。
一九八四年の夏頃だっただろうか。三歳半の私は、父の赴任に伴い、家族で南アフリカ共和国のヨハネスブルグへと旅立つことになった。五歳の兄と三歳の私を連れての二十四時間に及ぶフライトは、母にとって相当な苦行だったはずだ。当時は直行便などなく、香港で乗り換えて七時間待ち、さらにどこかで給油のために降りて数時間の滞在を挟み、ようやく南アフリカにたどり着くという行程だった。ヨハネスブルグの空港で迎えてくれた父は、優しい表情をしていた。一か月ぶりくらいの再会だった。「待っていたよ」。そんなことを言っていた気がする。乾いた空気の匂いと、見たこともない広い空の色が、日本とはまるで違う世界に来たのだと幼い感覚に訴えかけていた。
最初に暮らしたのはブレアゴーリーという地区だった。一年ほどそこで生活しただろうか。日当たりがあまり良くないとか、少し手狭だとかいう理由で、リンデンという地区の家に引っ越すことになる。新しい家は五百坪ほどもあっただろうか、正確にはわからないが、庭でサッカーのパス練習ができるくらいの広さがあった。庭にはサボテンの木が生え、小さな畑があり、アボカドの大木がそびえていた。私はそのアボカドの木によく登った。枝の間から見下ろす庭の景色、葉の隙間から差し込む南半球の強い日差し。自転車の練習もこの庭でした。緩やかな丘の上から下まで漕ぎ降りてくる、あの風を切る感覚を今でも覚えている。
しばらくしてビューティーという犬を飼い始めた。雑種の小型犬で、茶色い毛並みの、犬の年齢でいえばもうおばあちゃんにあたる穏やかな犬だった。誰に対しても温厚だったが、なぜか家にいた住み込みのメイドにだけは吠えたり噛みつこうとしたりした。当時のヨハネスブルグでは、日本人の駐在員家庭が住み込みのメイドを雇うのが一般的な慣習だった。父の前任者から引き継いだのか、評判の良い、当時二十代後半くらいだったであろうそのメイドに、私たち兄弟は風呂に入れてもらったり、両親が接待などで外出する夜に子守をしてもらったりしていた。彼女は英語しか話せなかったが、私たちが片言の日本語を教えてみたりもした。ビューティーが彼女にだけ攻撃的だったのは、当時のアパルトヘイト体制と無関係ではなかったかもしれない。南アフリカの犬の中には、黒人を見ると吠えたり噛んだりするようにしつけられていた犬種がいたと聞く。ビューティーの過去にそうした経験があったのかどうかはわからないが、彼女はビューティーをとても怖がっていた。
彼女には二人の娘がいた。私たち兄弟と同じくらいの年頃で、ときどき庭で一緒に遊んだ。だがある日、「こっちの庭でも遊ぼうよ」と誘ったところ、「そっち側には入れないの」と言われてしまったことがあった。今でもよくわからない。ただ、あのとき感じた寂しさだけは確かに残っている。一緒に遊んでいたのに、見えない線が引かれている。幼い私にはその線の意味がわからなかったが、胸の奥にちくりとした感覚があった。
時系列を少し戻す。南アフリカに到着してほどなく、私は日本人駐在員の子どもたちが多く通う園に入った。しかしそこでの日々は、あまり楽しいものではなかった。意地悪な子がいたし、私自身も乱暴なところがあって、思い通りにならないと相手を突き飛ばしてしまうようなことがあった。常に暴れていたわけではなかったと思うが、周囲から好かれるタイプではなかったのだろう。次第に仲間外れにされるようになり、半年か三か月か、はっきりとは覚えていないが、その園を離れることになった。なぜ転園するのかと母に尋ねたとき、「潰れちゃったのよ、あなたの園は」と答えた母の声が少し曇っていた気がしたのは、私の記憶が後から色をつけたものかもしれない。
転園先は、壁にパンダの絵が描かれた現地の園だった。パンダの絵があるからそういう名前なのだろうと、四歳の頭で勝手に納得していた。そこでは私はたったひとりの日本人だった。園児のほとんどは白人の子どもたちで、なぜか二人ほど黒人の子どもも通っていた。アパルトヘイト下でそれがどういう事情だったのか、当時の私に理解できるはずもない。日本人は制度上「名誉白人」として扱われていたかもしれないが、子どもの世界にそんな肩書きは通用しない。肌の色が違う、言葉が違う、それだけで十分に「異質なもの」だった。
石をぶつけられて顔面から血を流したことがあった。頭にポスター用の粘着剤のようなものをべったりとくっつけられ、取れなくなって泣いたこともあった。明らかな嫌がらせだった。ただ、私は同年代の子どもの中では体が大きいほうで、力で負けることはあまりなかった。問題は午後の時間帯だった。上の学校が終わると、迎えに来た母親たちに連れられて年上の子どもたちが園にやってくる。その年上の子たちに目をつけられ、追いかけ回されるようになった。体が倍ほどもある巨人に追われる恐怖は、捕まったら殺されるのではないかと本気で思うほどだった。走って逃げる、遊具の陰に隠れる、また走る。心臓が破裂しそうなほど鳴っていた。ところがある日、遊具の上で追い詰められ、もう逃げ場がなくなってしまったとき、彼らは「なんだ、もう終わりか」とでも言うように興味を失って去っていった。つまり、逃げ回る私がおもちゃとして面白かっただけなのだ。肌の色が違う日本人という存在が珍しく、追いかけると必死に逃げるから楽しかった。それだけのことだった。
それでも、悲劇ばかりの園生活ではなかった。ひとりの男の子が、私を自分の家に招いてくれたことがあった。小柄で力もそれほどないのに、園の中では人気者で、少し賢い雰囲気のある子だった。彼は私を仲間として扱い、手厚くもてなしてくれた。家に遊びに行ったとき、靴を脱いでほしいとお願いしたら、向こうは土足で家の中を歩く文化なので、なぜ脱がなければならないのかと不思議そうな顔をしていた。悪気のない、文化の違いからくるやりとりだった。彼に対して私が手を上げることはほとんどなかった。何かが変わったわけではない。ただ、仲の良い相手には自然と乱暴にならなかっただけのことだと思う。
園にはお昼寝の時間があった。私はさっさと起き上がって遊びに行きたかったのだが、隣に寝ていた子が「まだそばにいて」と頼んでくることがあった。「プリーズ」と言われると断れず、何度かそのまま残ったことがある。その子の母親から、後日、母がお礼を言われたこともあったらしい。記憶はもう曖昧だが、自分にもそういう優しい側面があったのだと思うと、少しだけ救われる気持ちになる。
もうひとり、忘れられない子がいた。ある女の子で、午後に年上の子たちに追いかけ回されているとき、彼女がそばにいると不思議と追いかけてこなくなった。守ってくれたのか、彼女の存在が何かの抑止力になっていたのか。とても綺麗で優しい子だった。恋とかそういうものではない。ただ、大好きだった。幼い心に刻まれた、温かい記憶のひとつだ。
園の終わり頃、マッシュルームカットの日本人の男の子が途中から編入してきた。彼とはその後、現地の日本人向けの学校でも一緒になり、よく遊んだ。今ではもう連絡を取っていない。元気にしているだろうか。
卒園が近づく頃、母は現地のインターナショナルスクールか英語主体の学校に通わせたいと考えていたようだった。しかし私は、異質な存在として扱われ続けることにもう疲れていた。日本人が集まる学校がいい。その選択は、幼いなりに自分で下したものだった。石をぶつけられ、粘着剤を頭にくっつけられ、年上の子どもたちに追い回された日々の中で、自分と同じ言葉を話し、同じ肌の色をした仲間のそばにいたいという気持ちは、切実なものだった。
こうして私は、南アフリカのヨハネスブルグで幼少期を過ごし、日本人が通う学校へと進むことになる。三歳半で海を渡り、アパルトヘイトの残る異国の地で、肌の色の違いが生む壁にぶつかり、それでも友だちを得て、犬と暮らし、アボカドの木に登り、広い庭を駆け回った日々。鷺宮の坂道の家から始まった私の人生は、気づけば地球の反対側で、濃密な色彩を帯びていた。五歳までの記憶など普通は数行で済むものかもしれない。けれど人は、強く心を揺さぶられた出来事ほど深く記憶に刻むという。だとすれば、この幼少期の記憶がこれほど鮮明に残っているのは、あの日々が私にとってそれだけ強烈だったということなのだろう。西武新宿線の黄色い車体と、ヨハネスブルグの乾いた青い空。ふたつの故郷の色が、私の原風景として今も胸の中にある。